IE9ピン留め
2012年のはじめに
ずーっと苦しんでいた問題にひとつ、風穴があいたのが2011年。

震災があったこと、広島に行ったことが、大きな影響を与えていたと思う。

私はいままで、自分の周りの世界のことだけをことさら大事にしてきた。
自分の生活、自分の感情、自分の身体、そして自分の愛するごくごく小さなコミュニティ。
それは基本的にとても大事な事。
それを無視した時期もあったから、なおさらこだわってきたのだと思う。

でも、去年の始め、ふと思ったのだった。
自分が芸術に少しでも関わっていきたいと思っている時に、世界の状況を見つめなくていいの?
戦争や、差別や格差や、宗教の対立や、経済至上主義や、そいういうものは全て
自分の外側に置いてきたのだけど、本当にそれで芸術活動なんてやってていいの?
特に私は創る側ではなくて、それをサポートする側なのだから、芸術と社会をつなげる観点が必要なはず…と思っていた矢先に、震災が起きた。

私は、全然動けなかった。
ショックを受けたり怒りを感じたりしたけれど、芸術と社会をつなげる動きなんて、
ひとつも出来なかった。
ただただやる事に決まっていた舞台を、一生懸命作っただけだった。
周りの人が何度も被災地に行ったり、募金活動をしたりしているのに、私は動けなかった。

それで(というわけじゃないけど)広島に行った。
被災地でもなんでもないけれど、原爆ドームを再び見た事とオノヨーコの作品に出会った事は
自分の中を大きく動かした。

で、やっぱり自分の中に立ち返った。
私の中にある憎しみ。
私が向き合う事が出来ずにいたそれを、まず解き放したくなったのだ。
戦争だの差別だの憤る前に、私の中には私にしか解決出来ない問題が潜んでいる。
今年の後半にその人に数年ぶりに会いに行った。

会ったら解決、じゃない。
会った事によって生じた新たな面倒も満載だ。
でも長い時間をかけて、自分が陥りがちな感情の本質を知り、人との関わり方を学ぶべきなんだと知る事ができた。

そうしたら、やっぱり社会とつながる芸術活動の必要性に自分が戻ってきた。
簡単な事で人を憎んだり排除したりしてしまう自分、だからこそ
きれいごとではない事も言える。
悟ったような生き方ではなくて、悩みながら、
でもやっぱり世界が平和でありますようにという思いを発信していきたいと思った。

例えば具体的に「原発はいらない。」「基地もいらない。」
そういう意見を選択して表明いくことと、自分の憎しみを解放していくことは、私の中で今まっすぐにつながっている。
自分に向き合う事と、社会に向かって発信することは、両輪なんだ。
とはいえ、単純にそれをスローガンにして芸術に持ち込むのではない方法を模索したい。

十分きれいごとな言葉なんだけど、本当に今年の始めにそう思った。

私の2012年のテーマは、「解放と発信」
しろぐも、もうちょっとマメに書きます





# by shiroyou | 2012-01-01 20:50 | しろぐ | Trackback | Comments(0)
瞑想体験
ここ数週間、自分が真剣に動かしたいと思った大きな岩が動き始めて、
心身が常に興奮状態にあった。
とにかく人に会って話したり、お家の大改造始めちゃったりと慌ただしくて、
それはそれでとてもワクワクする素敵なことなのだけど、
その興奮に、そろそろ体は疲れている気がしていた。
それを時間をかけて静かに沈殿させ、上澄みをすくうようなプロセスを本能が求めている感じがして、Tao Zenというところの瞑想のワークショップに参加した。

もともと整体や気功、ヨガ等、体メンテナンスへの興味は尽きないが、なかなか定期的に通う事ができず、さらに瞑想なんて、最もめんどくさそう、と敬遠していたのであるが、
数年前から気になっていたTao Zen主宰の大内雅弘さんの著書「セルフ・チネイザン・タッチ」(内臓のマッサージ法のようなもの)は理屈抜きに気持ち良くて、その導入部分にはなぜか「瞑想」がある。
私が信頼している整体の片山洋次郎さんも、ワークショップでは体をゆるめる過程で瞑想に近い事をしてたし、どうも私の好きなものには、瞑想が自動的にセットになってついてくるらしい。
これはいつかやらないといけないんじゃないの!?とは思っていたのだけれど、
ようやく必要な段階に来たのかもしれないな、と思う。

初めてお会いする大内さんは、なんだかとても「満ち足りた人」。
いでたちも空気もすごく普通だし、スピリチュアルな事も言わないし、現実的で理にかなっているし、それがまた逆にとてもスピリットを尊重している感じがする。
言葉と、それを発する身体の両方に嘘がないから、大内さんの言葉はひとつひとつ、とても力を持っている。
しゃべっている姿を眺めているだけで、自分の体がリラックスしてゆき、もう講義聴かなくても十分!という感じだった。

実際には短い瞑想の方法をいくつか試しながら、その意味を話していくのだが、ものすごく腑におちたのは、
「自分の健康や成功のためだけにやると、意外に力を発揮しない。それがちょっとでも社会と響き合う方がいい。でも、それを目的にするとまた違うものになってしまう」というようなこと。

分かりやすい実例として、チネイザンの手法も取り入れて「腎臓をあたためる」というのもやってみたのだけど、自分自身でやっているのと、他の参加者と組んでお互いにやり合うのでは、効き目が全然ちがう。
やってもらうのもやってあげるのも同じく、体から喜びが溢れてくる感じになって、
会場中が一気に温かくなった。本当に気温が上がったじゃないかというくらい。
これは片山さんのワークショップでも、全く同じ事が起こる。

同じように、瞑想も帰って一人でやるよりみんなでやっていた時の方が、逆に深い集中ができていた気がする。
みんながそれぞれ自分に向き合っているだけなのに、みんなで大きなものをふわあっと抱きしめているような感じ。
すごくいいコンサートとかは、割とそうなるという実感があるので、音楽に近い力があるのかもしれないな、と思う。


帰ってから忘れないように日常生活に取り入れているんだけど、あのときの気持ち良さには至らない。
「瞑想と、ぼーっとしてるのとは、一体どう違うんだ!?」と悩んでしまうくらい、一人でやる瞑想は心もとないのだ。
でも、あの場にいた事はしっかりと身体が記憶している。
だからなんとなくでも適当でも続けてみればいいんだろうな、と思う。
何かが変わるとか悩みが解決するとか病気が治るとか、そういう即効性ではないんだと大内さんも言っていたように、分かるような分からないような合間をゆらゆらと漂いつづけているうちに、自然に自分自身がみつけるものがあるのかもしれない。













# by shiroyou | 2011-12-16 00:35 | 身体ろぐ | Trackback | Comments(0)
ああ、うれしいー
一時はどうなる事かと思った発熱も口内炎も、ようやく下火。
熱は完全に平熱に戻り、口内炎も半分くらいに減った。

この一週間の体の変化たるやそれはめまぐるしく、自分の体なのに驚く事ばかり。
たまに体調崩すと、崩れていく流れも、確実に治っていく流れも体感出来て、
それはそれで面白いものだなあと思う。
まあ、らくになった今だからいえるんですが。

基本もうこの10年位、薬は飲まなくなってるし
病院にも行かなくなってるのだけど(もちろん本当にヤバイときはいくけど)
その分、野口整体が「病は経過するもの」というように、その過程を味わえるようになった。
薬で治していたら分からなかった感覚。

熱がぐおんぐおん上がって打つ手のない感じも、
あるとき上がりきったな、と感じたときも、
膠着状態に思えた口内炎がすごい勢いで治り始めたときも
重湯からおかゆになり、初めてうどんが食べれた時のうれしさも
もう平熱なんだけど、もう少し動くのは待とうと思う時の野生の感覚も
ちゃんと味わって、それはなんだか生命体としての快感みたいなかんじだった。

人の体って弱くて強い。
体力のない自分を時々怒りたくなるけど、今回治る過程を見てたら、
私って健康体!!ってすごく感じた。
体力はないけど、健康なんだ。

今は、受け付ける食べ物と受け付けない食べ物が、非常にはっきりしています。
そのうちまた曖昧で適当になるんでしょうが、今のうちにそれも楽しんでおこう。
# by shiroyou | 2011-10-23 23:36 | 身体ろぐ | Trackback | Comments(0)
広島旅その2ーオノヨーコ展ー
広島での初日は、夕方パタっとホテルで寝て、夜は市内を散歩したり、
超個性的なカフェに入ってごはんたべたり、久々ののんびりペース。

翌日は、この旅の主目的、オノヨーコ展。
その美術館は、市内とはいえ、ちょっとはずれの山の中に建っていて、
路面電車を降りてから、ちょっとしたハイキングコースのような道を登ってゆく。

息を切らせながらようやくたどりつくと、外に飾られていたのは、オノヨーコ展のひとつ、
ウィッシュツリー。人が短冊に願いを書いて木につるす、まさに七夕の笹みたいなやつ。
なんとなく、それをみた瞬間、ここでやってる事に意味があると思った。
山の中を登ってきて突如見えてくるツリーも、その建物との調和も。

…中に入ると作品そのものは、数も少なく、いつもパッと見ちゃうタイプの私には短すぎるくらいの滞在。
けれど、号泣しながら出てくる私。広島二度目の魂号泣。

写真も撮影可能で、会期も終わっているし、紹介したいのはやまやまなのですが、
言葉にならず。
アートはアートなんだものね。

でも、私オノヨーコさんって好きだけどエキセントリックで理解不能な感じかと思っていたのだ、勝手に。
メッセージありきなのかなとか。
作品を解説しているものや、断片的に入る情報から、そんなイメージを持って、ちょっと怖かった。

でも作品の中に入ってみると(まさに作品の中に入る、という感じのアート)
「意味を考えながら見なくていいんだ」って思ったし、何より、彼女はとても優しいんだな、と思った。
作品から漂ってくるのが、自己主張じゃなくて、なんだかとても優しい空気だったのが本当に意外で。

「希望の路」と題されたこの作品は、明らかに広島で発表するための「原爆」と「3.11」をイメージしている。
でもそれは、何かを責めたり訴えたりする空間ではなかった。
ただただ、人をいとおしむ、その事だけが伝わってきた。

作品の最後は、真っ暗な部屋で遺体安置所のような場所を通り抜けて、出口へ出る。
そこを出ると、ガラスから降り注ぐ外の光と、緑と、オノヨーコのメッセージが風で揺れている。

「希望の路」

そのタイトルが、意味じゃなく思いとして、体の中に溢れてきて、
本当に魂が交信したな、と思った。

写真でも動画でも、伝わらない物が本当にある。
魂は時間も場所も越えるけど、でもその場所に行かなければ、ラジオのチューニングのように、
アンテナ立てても繋がらないものがある。

この旅で、それを確かめにいったんだな。
「行きたい!見たい!」と思った事は何があっても本能を信じて実行しよう。
そう決意する旅だった。

…旅モードに半分だけスイッチが入っちゃったこの短い旅、帰りにとんぼ返りで似島に寄ったり、
横浜でバスを降りたら鎌倉寄っちゃったりしましたが、無事帰宅。

大分ハードだったのだが心の中が元気いっぱいだったので、「私も体力ついたなあ」
と安心したら数日後、顔がぶわーっと腫れ、なんだろと思っている翌日には高熱。
そして口中数えきれない口内炎、手足の発疹。
体力ついてないじゃん。
心がぐわっと揺れる経験をすると、そのあとに発熱するというのは、私のよくあるパターンだけど、口内炎と発疹がついてくると、もう本当にお手上げ。
本能に従うって、リスク高いなあ。
# by shiroyou | 2011-10-20 01:08 | しろぐ | Trackback | Comments(0)
広島旅1ー祈りのタワー、原爆ドームー
しばらく放っておいたらすっかり仕様が変わってログイン出来なくなっていたしろぐ。
久々触ったら入れたよ!!

さて、ヒロシマ賞を受賞したオノヨーコの作品展の新聞記事を見たのは9月の事。
広島の美術館でだけやっているので、行きたいなあ〜とザワザワしたのだが、
ちょっと大きな制作舞台に忙殺されて、
ようやく終わった10月上旬には、疲れ果ててすっかりその事を忘れていた。

その後、制作チーム(子連れ)の慰安日帰り旅行?で、大好きな藤野のイベントに行った時、
彼らの生活とアートがまさに隣りあっている事にすごく刺激を受けて、
帰り道、「なんか広島に行っといた方がいい気がする!!」と思い立つ。

急いで美術展の会期を調べると、これは急がなきゃいけないし、
私のスケジュールも合わせると、翌日高速バスで出発するしか方法はないよ!ということに。
…こう見えても、多少は計画を立てる方が安心出来るタイプ、こんな急に旅行することなんてないのだよ…
でも、頭の中には、「自分の心と直感に従う勇気を持ちなさい」という、かのジョブズさまの声。

ええい、行ってしまえ。

疲れの残る体に高速バスはきつかった…
でも広島に着いて朝一入った喫茶店のモーニングとネルドリップコーヒーがすごく美味しくて、
すぐに元気がでる。カフェのモーニングって大好き!

何にも調べてないし、まだ朝8時すぎで、本屋もあいてない。
JRの路線図を見ると、「宮島口」からフェリーが出てて、世界遺産の宮島に行けるというので、
とりあえずそれに決定!

宮島は、完全に観光地で、大して情緒の感じられない土産物店を抜けて、厳島神社へ入る。
満潮から1時間後くらいなので、すっかり水の中に建つ神社。
潮位を計算して、これを作ろうと思った昔の人はすごいよ。

と感心はしつつも、清濁いろんなものを奉っている島にちょいと複雑なものを感じる。
確かに「神の島」だけどさ、寄せ集めちゃった感もなきにしもあらず。

その後、広島平和公園へ。
乗ってて楽しくてとびきり安い路面電車に乗って、原爆ドーム前に出る。

降りて原爆ドームが目に入ったとたん、なぜか溢れてくる涙。
前に見たから懐かしさが、とかじゃなく、ショックを受けたとかじゃなく。
ただただ条件反射のように涙がでてくる。

理由のない涙は、魂が何者かと交信しているんだと、私は勝手に思っているのだが、
この時、まさにそんな感じだった。
「来なきゃわからなかった」
確かにそう思った。

平和公園を歩くと、高校時代に訪れた事をぽつぽつと思い出す。
貞子の像の周りには折り鶴を奉納?するガラスケースが出来てしまっていた。
高校時代おそらく韓国系外国人に英語で
「この慰霊碑が、公園の外にある事を、あなたはどう思うか?」と話しかけられ、
胸が詰まった思い出のある韓国人慰霊碑は、ちゃんと公園の中に移設されていた。
平和資料館の他に、あまり意義の分からない平和祈念館というのも出来ていた。

…やっぱり平和公園自体は私はそんなに好きじゃない。
高校時代にぼんやりと違和感を感じた事を、今回ははっきりと自覚した。
爪跡を消すようにコンクリートと土と、木をバランスよく配置したその場所は、
キレイすぎて何も語らない。
たくさんある慰霊碑も、もちろん作らずにはいられない思いは重々理解しつつも、
やっぱりキレイに整いすぎている。

でも原爆ドームだけは違った。
確かに細かく補修されて演出されているようにも見えるのだけれど、
すごいエネルギーを感じた。
皮肉なことに、人造のどのモニュメントよりも美しくて、素晴らしいアートにもなっていた。
沢山の人が、ここを残そうと思い、守ってきたこと、祈ってきたことと関係があるのか、
すでにそこは、浄化された祈りのタワーになっているような感じだった。
まるで神社のような聖地のような空気。
これだけは、今回初めて感じた事。
それを感じただけで、なんだか来たかいがあった。

翌日は、いよいよ現代美術館へ、オノヨーコ展を観にゆく。
# by shiroyou | 2011-10-15 15:20 | しろぐ | Trackback | Comments(2)
焦った結果
どうも、最近あせりがち。
「私は一体何をやっているんだろう」という言葉がぐるぐると体中をめぐっている。
震災以来、そう自問自答する人は多いのだろうけれど、それにしても良くない流れだなあと
自覚してはいた。

ここ数週間の間に判断したこと、やってみた事がことごとく裏目に出て、
やっぱりなあ、と思った。
焦りで決めた事は、完全に何かがずれているのだと。

裏目に出れば出る程焦って追い打ちをかけるような事をしていた数日前、
いきなり夜中にぱちっと目が覚めた。
しばらく止まっていた自分専用ノートにぶわーっと思っている事を書き始めたら、
最近の判断基準がいかに愚かだったかが見えてきて、
なんだかあきらめがついてきた。

「がんばり」の方向を間違うと、どんどん負の連鎖がはじまって、
それに気づけない程、自分の感覚が鈍くなっていく。
神様に「根本的に方向性がまちがってるよ」としかられた気分だ。

軌道修正したら、少し、落ち着いた。
現状はまだ変わっていないけど、変えるのは心持ちからだ。
きっと、何かが好転すると思う。
なんとなく。
# by shiroyou | 2011-08-11 11:52 | しろぐ | Trackback | Comments(0)
水が合う
私はあんまり水分を取るのが得意じゃなく、水やお茶を大量に飲めない。

で、この暑い夏も、エアコンのない屋内でもイマイチ水分補給がすすまず、
やばいなあ、と思っていたのだが、友人がくれた湧き水をもらってびっくり。

出掛ける時にいつものようにペットボトルに持参したら、
何と午前中に500mlを飲みきってしまう。
いつもなら、夕方帰る時に3分の1残るくらい。

翌日、持って行くのを忘れて自動販売機で買った水は、
やっぱり3分の1残る。

そして、昨日再び湧き水たくさん持参したら、
帰るまでに700ml以上飲んでいる。

なんだこの違い。
普段私が飲まないのを知っているその友人は、
「なんて正直な体なんだ」と大笑い。

もちろん美味しいんだけど、そんなんじゃなく
体が何にも抵抗しない。
いきなり代謝がよくなった。
実は、別の場所で取れた湧き水をもらったときも(湧き水マニアか!)
確かに美味しかったのだが、こんなことは起こらなかった。
体に合うってあるんだなあ。
体だってほとんど水だもんな。
あまり冷やさず、たくさん飲もう。



# by shiroyou | 2011-07-20 01:28 | 身体ろぐ | Trackback | Comments(0)
慰霊の日
汗だくで仕事をして、薄暗くなって外にでる。

ぬるい風。ものすごい湿気。
もうーやだーと思った瞬間に胸がきゅんとなった。

沖縄みたいだ!

空港から降りただけで、熟れすぎた南国の果物みたいな匂いのする空気。
みんな胸元のあいたかりゆしウエアを上手に着こなして、東京よりはるかにゆっくり歩くビジネス街。
もやしを山積みにしておしゃべりしてるのか店番してるのかわからない市場のおばあたち。
海辺で飲んだ、あっさりしすぎのオリオンビールの美味しさ。

行きたいなあ。

今日は沖縄慰霊の日だったんだな。
少しの間、祈る。

沖縄の米軍基地問題と、原発の問題は、中身はちがうけれど、まったく同じ文脈のように感じる。
危険なものを弱い地域に押し付けて、お金で住民を引き裂くやり方。
豊かさの方が、安全よりも大事だと、地元の人まで信じてしまうやり方。
誰かの犠牲の上に成り立つ「幸せ」を受け取るのか受け取らないのか、
自分の生き方や価値観を問われているような気のする、この共通の問題。
ずっと、自分の中で考えて行きたいと思う。

そうだ、1995年米兵暴行事件で沖縄中が動いたあの年、
「沖縄に、高校生が作る平和集会をサポートしにいかないか?」と高校時代の恩師が
私と友人に電話をかけてきた。
埼玉の高校生達と一緒に沖縄へわたり、フィールドワークをサポートしたり、
集会の準備を手伝ったりしながら、
あのとき、初めて沖縄という場所を自覚的に体感したのだった。
先生は、ついて行けない程の活動家でもあったが、
「米兵に抗議する集会は作っても、ブルーシールアイスはおいしいから食べておけ」
なんて言ってたわ。
あの先生が亡くなってからも、ちょうど一年。
合掌





# by shiroyou | 2011-06-23 23:42 | しろぐ | Trackback | Comments(0)
感性と知性で
非常時にあふれる情報の中で、何を信じるかというときに、好き嫌いはある意味とても確かな判断材料だなあと思う。
特に原発に関しては、楽観的なものから悲観的なものまで、めちゃめちゃ幅のある意見があちこちで出ていて、それだけを見ていたら、どうしたらいいかわからなくなる。

でも、自分が普段から信頼して好きだった人の発言は、やっぱりしっくりきて、ちょっと自分の地軸を取り戻す。

だから、私が以前から好きだった内田樹さんや姜尚中さんのクールな脱原発論は「やっぱり!!」と思うし、大好きなゲルニカの絵を研究室に飾ってあるだけで「信頼できる!」と直感した小出助教の説明は、今最も専門家として頼りにしている。
そして、今はあまり読まなくなってしまったけれど、私の20代の一時を支えてくれた村上春樹さんの脱原発を打ち出したスピーチもまた、感慨無量だった。

一方、一読して、なんだか薄っぺらいなと思って本を捨てたモギさんやカツマさんは、やっぱり以前原子力推進に協力していたりなんかして、当時そんなことでは好き嫌いを判断していなかったのに、一事は万事なんだなあと実感する。
何かを嗅ぎ取った自分の嗅覚を信じてあげたい。

だから、誰かが何かを警告していたりセンセーショナルな事を言っていた時、出来れば私は「震災以前」のその人が書いた普通の文章、普通の発言をたどるようにしている。
普通の時の普通の発言に違和感を感じたら、それはとりあえずスルー。

信頼に値するかどうか、私が一つの基準にしているのは、知性を感じるかどうかだ。
感情だけで危険や安全を言う人よりも、ある意味冷酷に現実を分析して淡々と発言を続ける人たちの方に、高い感受性を感じる。

本来、感性と知性は、反発しないのだと思う。
むしろ、知性というのは感性の土台の上に積み重ねられるものであり、
感性は、知性がなければ伸びて行かないものだと、私は信じている。
その総合した感覚がきっと「好き嫌い」という主観を作り出すのだと思う。

…何をいいたかったかというと、ここ数日でさらに呆れる情報多発の原発の状況(政府公式といわれるものを含めて)を、もう自分の感性と知性(=好き嫌い)で精査するしかないのだという覚悟を、ちゃんと決めなくちゃと思ったのだ。

他の人にそれを求めるわけじゃないけど、少なくとも私は。


# by shiroyou | 2011-06-13 23:29 | しろぐ | Trackback | Comments(0)
キース・ジャレット ソロ2011 
29日、念願のキースジャレットソロコンサートへ。

CDでしか知らず、その大地から水を吸い上げる大木のような音楽に魅かれて数年、
ようやく本物を見る事ができた。

苦手な渋谷の混雑にうんと参ってしまいながら到着したオーチャードホール。
一通り館内探検を終えてから席に着く。

始まると、普通のコンサートにはあり得ない程照明が落ちていく。
暗闇でみんなが息をひそめる中、聴こえてくるピアノのボディをたたく小さな小さな音。
それだけでキューンと胸が熱くなる。
全く…鍵盤を鳴らす前からキースの音。
ピアノの音も、本当に繊細な音。けして力任せに弾かない。

どうも私はクラシックピアニストの音が、まるでシンクロナイズドスイミングのように感じる事がよくあるのだけど(あくまでイメージです)
キースの音は完全に、空で踊るダンス。

即興で生み出される曲の数々は、不思議と本人が創っている感じがしない。
深い集中を瞬時に行い、何者かを呼び寄せ、その者と語り、そしてそれを見送る…そんな繰り返しのように感じた。
なんだろ、気難しい者、おちゃめな者、繊細な者、いじわるな者…入れ替わり立ち替わりやってくる、その小さな妖精みたいなもの。

コンサートじゃなくて、シャーマンの美しい儀式みたいだ。
とにかく彼は観客へではなく、音楽へ向き合っている。
そこにいられることは嬉しくもあり、あまりに違う次元にいる自分が、少し寂しくもあり。

しかし、私の緊張なのか、はたまた「録音をするためにお静かに!」と何度もくり返されたアナウンスによる観客みんなの緊張なのか、
第一部はあまりに張りつめていて途中で集中力切れ。
ちょうどキース本人も集中力が切れたかのように切り上げる。

異様に体力気力のいるコンサートだ。
20分の休憩中、思わず爆睡してしまう。

そして第二部、一部より少し空気がやわらかい。
一部の張りつめた美しさとは違い、なんだか少しワクワクする空気がしのびよってる、と思ったら、曲中キースが急に演奏を止め、何者かに向かって「バイバイ」と声をかけ、見送った。
絡み付いていたそれがふわっと飛んでいくのが、見えるかのようなしぐさだった。

急に涙が出そうになったら、次からの音が変わった。
空気がまるく、やわらかくなって、いつまででも聴いていたい暖かい感じ。
体中が熱を持ったみたいになって、本編が終了。

アンコールは、目に見えない何者かに向かってではなく、完璧にお客さんに向かって、
メッセージを伝えてくれているようだった。

私はアンコールにはこだわらないのだが(なくても全然OK)
初めて、アンコールってお客さんとアーティストの別れを惜しむ時間なんだなあと思った。
やさしいお別れと感謝の言葉を言ってもらって、ありがとうと行かないでと切実に訴えるそのやりとりが(もちろんそれは、音楽と拍手、のやり取りなのだけれど)ずいぶん切なくて永遠に続けばいいのにと思った。


最後の最後にはもう涙が止まらなくなって完全に恋をしたようになっていて、
そんな風になったことは数年前観たのボビー・マクファーリン以来の感覚で、
一体なんでこの人たちはこんなふうにさせちゃう力があるのだろう、と
本当に呆れた。
すごい求心力だ。

体の中がすっかり浄化されて、ぼんやりして出た渋谷の街は、行きとは全然ちがって見えた。
この世の全てに感謝と祝福を捧げたくなるような気持ち、、それが音楽の本当の力なんだと改めて思った。





# by shiroyou | 2011-05-31 00:43 | 舞台ろぐ | Trackback | Comments(0)


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